シロクマの物置

シロクマの屑籠のひとの物置。

5月 15

20年以上前のパソコン通信時代からネットに触れている感覚として、ネットというのは自分の写し鏡のようだな、と思うことがあります。

一般論ですが、攻撃的な人のところには攻撃的な人が集まってきますし、面白い人のところには面白い人が集まってくると感覚的に思っています。類は友をよぶ、みたいな感じでしょうか。

なので、自分の姿勢がそのまま、自分に返ってくるものだと思って、気をつけるべきところは気をつけています。

[N] ツイッターでフォロワーが増えると批判・罵倒されるのか? (via kanose)

(kanoseから)


4月 15

(tokadaから)


4月 10
“麻生太郎
「国際社会でも沈黙の美徳が通用するかというと、残念ながらそれはない。
 つい先日、こんなことがあった。オレのアメリカでの知り合いに、インテリで金持ちの老婦人がいるんですが、彼女は『孫が日本のアニメ“ポケットモンスター”に夢中になっているけれど、あれほどショッキングなものはないわ』って言うんです」

宮崎哲弥
「ポケモンに?」

麻生太郎
「そう。なぜなら、ポケモンは一言もしゃべらない。『キュ』と『キュキュキュ』しか言わねえんだから(笑)」

宮崎哲弥
「ハッハッハッ(笑)」

麻生太郎
「いや、彼女が驚いたのは、ポケモンがしゃべらないにもかかわらず、コミュニケーションができる能力を持ってることなんだ。『初めに言葉ありき』のキリスト教社会にとって、これは驚天動地のキャラクターだというんだな。言葉がなくとも『ハート・トゥ・ハート』でコミュニケートできる文化をアメリカに紹介したのは、じつはポケモンだというわけ。
 アメリカは自己主張してナンボの社会です。日本人はあまりしゃべらないことから『何を考えてるのかわからない』と、不信感を抱かれがちだった。ところがポケモンを見た老婦人は納得した。『日本には、しゃべらなくても意思が通じるカルチャーがある』って(笑)。ポケモンをこんなふうに捉えるインテリもいるんだなあと思って、感心したね」

宮崎哲弥
「いい話ですね。任天堂はわかってるのかな(笑)」

麻生太郎
「逆に言えば、日本人ならちょっと言い難いと思うようなことでも、いざ話してみればちゃんとフェアに受け止めてくれるのがアメリカ社会の特徴でもある」”

ぼやきくっくり | 外国人から見た日本と日本人(5)

■某アメリカ人女性=麻生太郎前外務大臣の知人。
「諸君!」2008年2月号 麻生太郎「『保守再生』はオレにまかせろ!」(聞き手:宮崎哲弥)より

(via kotobanara)

(tundereforceから)


3月 28

初めて「おたく」が活字化された時――中森明夫『おたくの研究』

 コミケット(略してコミケ)って知ってる?いやぁ僕も昨年、二十二歳にして初めて行ったんだけど、驚いたねー。これはまぁ、つまりマンガアニメのためのお祭りみたいなもんで、早い話、マンガ同人誌やファンジンの即売会なのね。それで何に驚いたっていうと、とにかく東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さがね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じこもって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊ちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った九八〇円一九八〇円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前流行ったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチ眼鏡のつるを額に喰い込ませて笑う白豚かてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさあ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らがどこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!
 ここぞとばかりに大ハシャギ、アニメキャラの衣装をマネてみる奴、ご存知吾妻まんがのブキミスタイルの奴、ただニタニタと少女にロリコンファンジンを売りつけようとシツコク喰い下がる奴、わけもなく走り廻る奴、もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたい十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。

 (中略)

 それでこういった人たちを、まぁ普通、マニアだとか熱狂的なファンだとか、せーぜーがネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。

 

 『漫画ブリッコ』83年6月号 中森明夫「『おたく』の研究1 街には『おたく』がいっぱい より

 ※上記は『別冊宝島104 おたくの本』、P91-92に再録されたものを引用した。
  


3月 24

平野氏は『ヘルシング』で有名ですが、ほかにも数本単行本が単発ですが出ています。で、全てが面白いのですが(『大同人物語』復活しないかなあ)、その中に『進め!!聖学電脳研究部』という作品があります。

 これは1990年代中盤あたりで『ファミ通PS』に連載されていたマンガで、表面的には聖学の電脳研究部におけるメンバーたちのゲームを中心にした恋あり笑いありの物語ですが、そこはヒラコーというべきか、そう単純に話は進みません。この雑誌、PS専門誌なのに部長がレゲークソゲーマニアという設定のせいで、『夢幻戦士ヴァリス』やら『スーパーブラックオニキス』は出てくるわ、『いっき』のコスプレはするわとPS以外のものも大量に出てきます(アーケードゲームネタが多かったような)。そのネタでコアなゲームユーザーはがっちりハートを掴まれました。

 さて、この作品、一部では有名になっている最終回があります。それは卒業した部長が主人公の西新井護に対して部長交代のテストをする話。で、そのテストとは、目の前に『バイオハザード2』『ファイナルファンタジーVII』『鉄拳3』と、当時の人気ソフト3つを出されて、「選べ」といわれます。その結果……

 西新井はSSソフトの『ギレンの野望』を懐から取りだし「今はコレです。」と返答。それに対し部長は「良くやった」「よく自分で選んだ」と返答します。さらにこの後には「自分で選べもしねーで流れに乗ってゲームを買う奴なんざ セングラでもやってろっての!!」という台詞もあります。

 さて、これは受け取り方次第ではPS専門誌でSSソフトを勧めたというふうに受け取られかねません。しかし、真意はそこではないでしょう(実際、それ以前の回ではバイオを1話使ってまるまるリスペクトしてたし、『鉄拳』も話によく出てきていた)。
 これはつまり、「周りの流行とか、人が『おもしろい』というゲームばかりをやるのではなく、自分で面白いと思うゲームを選んで、そしてプレイしろ!」という、ゲーマーに対してのメッセージではないかと思うのです。

 この当時、ゲーム業界は盛り上がっていたのはよいのですが、逆にどんなに面白くても、必ずしも多くの人がプレイしてくれる事に繋がらずに「隠れた名作」になることがよくありました。PSはまだしもセガサターンでは今振り返れば非常に評価の高いソフトがいくつも出ていますが、それが必ずしも売り上げに繋がらないという現状が起きていました。『グランディア』の売上本数50万行ったからともかく、『カオスシード』や『サンダーフォースV』の5万以下』というのは当時ファンとして泣きたくなりました。「隠れた名作」というのは、逆に言えば「当時は評価を得られず、売り上げでは惨敗したゲーム」とも言えるのです。

 このメッセージは当時からコアなゲーマーが抱いていたそんな状況を感じつつ、ハード云々ではなく、ゲーム好きのヒラコー氏が、ゲームをする人に送ったメッセージなのではないかと思うのですね。まあ、それを堂々とファミ通PS誌上で語ったのはある意味見事ですが。

ヒラコーが教えてくれたゲーマーにとって大切なこと - ゲームミュージックなブログ (via petapeta)

(katoyuuから)


3月 22

「サブカルチャー」と「サブカル」――東京大学[80年代地下文化論]講義 より

 それともうひとつ、用語の問題で最近考えているのは、「サブカルチャー」を「サブカル」と略したときに、実は異なることを言ってるのじゃないか、と思うんです。「サブカルチャー」は下位文化ですよね。「ハイカルチャー」に対する「サブ」です。でも「サブカル」は下位文化ではない。「サブカル」というひとつのジャンルとしか言いようがない。

 つまり「サブカル」に携わっている人は、はじめから「ハイカルチャー」なんかに関心も興味もないと思う。いま、自分が面白いことが、文化のなかでどういった位置があるかなんてまったく考えてない。気がついたらそれがあった。

 カウンターカルチャーにしても、サブカルチャーにしても、打倒すべき対象として「ハイカルチャー」があり、「ハイカルチャー」の優位性に対抗していたことがわかるけど、「サブカル」にそんなことは一切、ない。それはそれとして自立して、ジャンルになっている。ここでもやはり、「二分法」の枠組みの外側に出ているのを感じます。

 ただ、「ハイカルチャー」に興味がないということの弊害ももちろんあって、あるジャンルのなかに閉じこもる、いまどきの言葉でいったらひきこもる傾向も否めない。これは考えるべきことです。

 

 宮沢章夫『東京大学「80年代地下文化論」講義』、白夜書房、2006、P156-157より抜粋


3月 20

3月 19
“223 名無し募集中。。。2012/03/18(日) 14:36:56.99 0
40歳でミスチルやB’z聞いてる奴はキツいわな、いい加減大人になれよって思う
40歳はいきものがかりやスピッツを聞かないと”
【2ch】ニュー速クオリティ:30歳でこれはNGってのを教えて (via ftth)

(amamakoから)


3月 18

「日本という国はわれわれの感覚でいう『読み』ができないところだ」

 東京に長く住み、禅や能、日本映画等に関する著作をもつアメリカ人、ドナルド・リチーは最近のインタビューのなかで、日本は西洋文化の中枢にある「あやまち」、つまり自己に対する信念、の解毒剤になると話している。「日本という国はわれわれの感覚でいう『読み』ができないところだ。……ここでは目にみえるものがリアリティなのだ。表面にあるものがリアルなもの……どんなに一生懸命みても、マスクが顔なのだ。『本当の私』というような、その人からある意味 で分離されているものという概念は存在しない。ここの人々はみたとおりのまま。外からつくりあげられているのだ。……日本人は西洋ではよく知られて象徴のようになっているものをもってきて、自分のものにする。だからといって彼らがつくりもの(プラスチック)の人々というわけではない。ここではあらゆるものがつくりもの、人工のものなのだから。そうではなく、虚偽のなかに生きているのは西洋のわれわれなのだ。プラトンや聖パウロがわれわれを迷わせたのだ!そうして、もちろんルネサンスも。でもここではすべてが、自らをあらわしているのだ」
 
クリストファー・ラッシュ 『ミニマルセルフ』、時事通信社、1986 、P170-171 より抜粋


幼児期の心理的傾向の適応的意義について

 幼児は一般に自己に関する知識が乏しいとされる。すなわち、自己についてのメタ認識が十分ではないということである。このことは、大人の視点からする と、一見未成熟にみえるが、こうした特徴がかえって別の文脈では、その時点を生きるのには適応的であるかもしれないのである。子どもは多くの場合、自分の 一般的能力を過大評価する傾向があり、失敗を自分の能力に帰属しないとされる。しかしながら、そのような自己評価の誤りがあるために、ある課題に対してさ まざまな試みをするかもしれないし、あきらめずに何度も、そして長時間挑戦し続けるかもしれない。あることを学習するためには、こうした自己に対する認識 の誤りが、逆にプラスの方向へ左右することがあるのである。幼児期の自己に対する過大評価は、まさに新しいことを学習する際に、あらゆることを試してみよ うとする態度に反映されるし、ねばりづよく遂行しようとする意味できわめて適応的であるといえる。
 
遠藤利彦 編 『読む目・読まれる目 視線理解の進化と発達の心理学』,2005,東京大学出版会 P115-116より抜


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